Bluetoothイヤフォンのススメ
わたしは満員電車がキライだ。
まぁ、大半の人はキライだと思う。他人の身体を触るという犯罪に該当する特殊な趣味を持っているようなヒト以外は、満員電車など乗りたくもないだろう。ちなみに、該当の趣味を持っているようなヒトは、すべからず滅ぶべし。
いや、わたしは満員電車がキライだという話だった。しかし、キライだからといって乗らずに済むわけじゃない。毎朝、同じ時間の同じ車両に乗り込んで、目的の駅に辿り着くのをただじっとして待つこと一時間。わたしは目を瞑り、イヤフォンから流れてくるロックンロールに全神経を集中させる。隣のおっさんの腕がベトついていようと、前のおねいさんの香水がキツかろうと、後ろの中学生の鞄の角が痛かろうと、わたしは音楽に耳をすませて、すべてをやり過ごす。これがわたしの満員電車ライフだ。
おもしれーだろ?
サイコーだろ?
オレは稲妻ヤローだ!
わたしのアタマの中でジャックがジャンピンでフラッシュしていると、突然、車内の騒めきが、わたしの耳へとダイレクトに届いた。
唐突に聴こえてきた雑音に、何事かと目を開けると、停車駅で降りる人の波に、わたしのイヤフォンの片割れがさらわれているところだった。どうやらグレーのスーツを着た、そこのおにいさんのカバンに、わたしのイヤフォンは丁度ひっかかっているようだった。イヤフォンはわたしの耳からすっ飛んでいって遥か彼方だ。
すると、そこでわたしはあることに気がついた。
すっ飛んでいったわたしのイヤフォンから、白い布のような、煙のようなモノが延びているのだ。そして、その白い物体の先を辿ってみると、なんと行き着いたのはわたしの耳の穴だった。
どうやら、わたしの耳からあの白い物体は出ているらしい。イヤフォンに引っ張られて、外に飛び出てきたようだ。
なんだかよくわからないが、わたしは猛烈にその白い物体を回収する必要を感じて、慌てて両手で手繰り寄せた。
しかし、その後どうしたらいいのかがわからない。おそらく、この白い物体は体内に戻さなければいけないような気がするのだが、さて困った。
わたしが、どうやって戻したらいいのか考えあぐねていると、向かいに立っているおねいさんが、耳を指差すジェスチャーをしながら、視線を送ってきた。
あぁ、耳に戻せばいいのか。
わたしはおねいさんへコクンと軽くうなずき返すと、イヤフォンを耳の穴へ素早く戻した。すると、再び稲妻ヤローのジャックがジャンピンでフラッシュしはじめる。それと同時に、何かが耳の中へ戻っていく感触があった。
わたしが安堵のため息をつきながら視線をホームへ向けると、同じようにイヤフォンを引っ張られて、白い物体が飛び出しているおにいさんが目に入った。
みんな、普通にあの白い物体が出るものなのだろうか、と暢気に観察をしていると、わたしの眼の前でおにいさんの白い物体は途切れてしまった。
すると、おにいさんは電池でも切れたかのように突然ホームへと倒れ込み、ピクリとも動かなくなった。
わたしが目を剥いて驚いていると、二人の駅係員がすばやくやってきて、おにいさんを担ぎ上げる。
「あー、まだ若いのに可哀想だね」
「今日はやけに多いな。10人目か?」
そんな会話を交わしながら、駅係員は慣れた手つきでおにいさんを搬送していく。
視線を車内へ戻してみると、みんな一斉にイヤフォンの装着具合を確かめていた。
なにこれ。
わたしの知らない常識でもあるわけ?
あの白い物体はなに?
ひょっとして霊体かなにか?
わたしも慌てて耳に手をやって、イヤフォンの存在を確かめた。
満員電車でイヤフォンがひっかかって外れるなんて、よくあることじゃん。これって、そんな身に危険が及ぶことだったの?
わたしはスマートフォンを取り出すとAmazonのアプリを立ち上げた。
物理的にひっかからないようにすればいい。
イヤフォンジャックに、だらしなく延びたコードが繋がっていること自体がナンセンスなのだ。
そう、わたしはBluetoothのイヤフォンをポチることに決めた。
台風一過にはあれが必要だった
布団がふっとんだ。
いや、使い古されたジョークではなくて、わたしの眼の前で、台風一過の抜けるような青空へと舞い上がると、わたしの上掛け布団は階下の花壇へ落っこちた。
ふわっと浮かび上がるその一瞬の出来事は、ほんの少しだけ優雅さを感じさせたりもした。
昨日は台風が上陸したので、わたしは部屋でずっと布団に包まって過ごした。
一昨日はアイツにフラれた。
なので、正確にいうと、昨日のわたしは布団に包まって、一日中泣いていた。
かわいそうなわたし。
健気なわたし。
いじらしいわたし。
そして今日、朝、目が覚めると気がついた。
わたしの布団は、台風が連れてきた湿気と、わたしの涙の水気が染みこんで、陰気な何かを強烈に発している。
布団を干さねば。
このいじけた感情を天日干ししなくては。
ぜんぶ消毒しなくては。
わたしは、この身に湧き上がる猛烈な義務感に突き動かされて、布団を抱えてベランダへと乗り込んだ。
そして、ありったけの力を込めて、物干し竿へと布団を跳ね広げた。
ぱぁっと布団は大きく広がると、狙ったとおりに物干し竿へと綺麗に掛かった。
煌めくような日差しが高く降り注ぎ、空はどこまでも遠く青く突き抜けていた。
カラッと乾いた風がわたしの頬を手荒に撫でながら、髪を無造作になびかせる。
そんな刹那の風景の美しさに、わたしは、この世界も悪くないと思ってみたりした。
暫し、布団と青空のコントラストを眺める。
そこで強風が吹いた。
台風の残滓。
布団は宙へと浮かび上がった。
花壇にだらしなく広がる布団を見下ろしながら、わたしは階段の踊場に転がっていたモノを想い出す。
「あー、やっぱり、あれって必要だわ」
布団バサミ
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そこで香るはカラフル・ミント
「欧米では数万円かかる歯のメンテナンスを、健康保険で受けることができるんです、日本という国は。これは世界的にみても稀有なことなんですよ」
普段は事務的な印象を受けるその歯科女医が、めずらしく熱を込めてそう言っていたことを思い出す。
僕は洗面台の鏡に向かって口を開けていた。手にはDENT . e-floss。
幸運なことに子供の頃から歯だけは丈夫だった。学校の歯科検診では、歯並びと虫歯がないことをいつも褒められた。自分が偉いわけでもないのに、そんな言葉で浮かれていたのだから子供というやつはおめでたい。しかし、おかげで20年ちかく歯医者に行くことはなかった。
それがある時、歯の裏側が崩れ落ちた。
最初は歯が欠けたのかと思ったのだが、何のことはない。歯石が剥がれ落ちただけだった。
あまりに歯医者にかかることがなかったため、僕は自分の歯の状態をまったく知らなかったのだ。それが歯石だということも、しばらくはわからなかったほどだ。
あらためて自分の口腔内を鏡で見てみると、歯の裏側は長年に渡る喫煙の習慣により、ヤニで茶色く変色していた。あまりの酷さに、もはやどこからが歯石で、どこからが自分の歯なのかはわからなくなっていた。
僕は小学校以来ぶりに歯医者に行くことにした。
僕の歯は、あっという間に白さを取り戻し、歯茎は健康な桃色をあらわした。
そこで最初の女医の発言になる。
施術中に彼女はよく喋ったのだが、その多くが営業用のこなれたトークスクリプトで、彼女の優秀さを際立たせるだけのもだった。
しかし、その一節だけは違った。きっと彼女の真実だったのだろう。
その言葉には、血肉を持った彼女を感じることができた。
だから、僕は彼女のすすめに従い、いままでになかった習慣を自分の生活に取り入れることにした。
デンタルフロスを使うという習慣だ。
僕は、デンタルフロスという物は、歯並びの悪い人が使うものだと勝手に思い込んでいたのだが、そうではなかった。むしろ、隙間がないぐらいにキッチリ歯が並んでいる人間の方が必要なものだった。
使ってみると、そのフロスにはワックスがコーティングされており、歯の間に抵抗なくスムーズに入り込んだ。そして唾液に触れると、その水分で倍以上にフロスは膨らみ、ぴたりと歯の側面にフィットした。
そんなフロスを小刻みに動かせば、ブラッシングで除去しきれていなかった細部の歯垢すらも、完全に取り去ってくれる。
こんな優れた物を今まで使っていなかったとは、勿体ないことをしたものだ。僕は素直にそう感心した。
それ以降、僕は女医の指導どおりに、オーラルケアに励むようになった。
後で知ったことだが、彼女が処方してくれたフロス。DENT . e-flossは普通の薬局では販売していなかった。
一度、市販品を使ってみたが、同じような経験を得ることはできなかった。
やはり、これでないと僕にはダメだった。
今は、定期検診でリコールされた時に歯科医院で購入するか、ネットで購入するか、そのどちらかだった。
鏡に映った僕が、カラフルな容器からフロスを引き出す様子を眺めながら、僕はなぜこの優れたフロスが一般的な薬局で取り扱っていないのだろうかと思案する。
そのまま歯の間にフロスを当てると、ミントの爽やかな香りが口中に広がった。
深夜2時16分の暗闇と渇き
暗闇の中で目を醒ますと、無意識の内にデジタル時計の青白い数字を捉える。
2時16分
ベッドに潜り込んでから1時間と少し。
起床時間を考えると、思わず舌打ちをしてしまう。再び目を閉じてみても、眠気が訪れる気配は一向になかった。
寝返りをうって壁を見つめる。いつもの姿勢とは反対向きだ。上掛けを脚で挟んでみても、なにも変わりはしなかった。
そんな中、僕はふと、強烈な喉の渇きを覚える。
――ビールが飲みたい。
寝付きが悪い時に飲むアルコールを、ナイトキャップとか言ったような気がする。
僕はベッドから這い出ると、暗い部屋の中を、僅かに漏れ入る外の灯りを頼りに冷蔵庫へと向かった。
そして、冷蔵庫の扉をゆっくりと引き開けると、暗闇に慣れきっていた僕の視界は一気に白んだ。
目を細めながら冷蔵室を確認すると、戻ってきた視界の先には、いくつかのアジア系調味料の瓶が並んでいるだけだった。そこには、ビールなんて物はなかった。
あったのは、ガス入りのクリスタルガイザーの青く澄んだペットボトル。
扉内側のポケットに一本だけ。
僕は落胆しながらもペットボトルを手に取ると、青いキャップをくいっと捻った。
――プシュッ
閉じ込められていたミネラルウォーターの時間が再び動き出し、細かい泡のつぶが出口を目がけて登っていく。
その様子をしばらく眺めてから、僕は一気にペットボトルを呷った。
喉を上下させる度に、泡の刺激が身体の中心を目がけて駆け下りていく。眠れずに燻っていた不快感が一瞬で押し流されて、そして僕の中へ消えていった。
気が付けば、僕は一息にボトルの3分の1を飲み干していた。
これは十分、ビールの代わりになる。いや、舌に甘さの嫌味を残していかない分だけ、ビールよりも爽快な気分になれる。
もうふた口だけ飲み下すと、僕はキャップをきつく締めて、冷蔵庫へとペットボトルを戻した。
そしてベッドへ向かいながら思った。
朝になったら、ガスは抜けてしまい、かったるくなるのだろうと。